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【お薦めアーティスト】YMO(イエローマジックオーケストラ)中期入門編

前回の初期編に続き、入門編中期。

 

YMO入門!中期編1980~1981

1981年のYMOは2枚のオリジナルアルバムを発売している。

その2枚は、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。

歌詞付きの楽曲になったのもこの頃からです。  

 

1981年3月『BGM』発売。

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YMOって、、暗い、、地味、、的なイメージはこのころの活動が多くを占めている。

 

前衛的ともいえるアルバム『BGM』は、当時開発されたばかりのデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使した非常に実験的なアルバムである。

それまでの聴きやすいノリノリのポップ指向のスタイルから“暗く重い”ヨーロッパ志向のニューウェーヴ色が強いエレクトリックサウンドを展開した。

 

音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大ヒンシュクを買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。  

 

そのアルバムの6曲目に、、名曲「CUE」(キュー)が収録。

これ以降のYMOの音楽性を示した1曲であると坂本龍一は語っている。


Cue - Yellow Magic Orchestra

 

初期のアルバムは生楽器とプログラミングやシンセサウンドが融合していましたが、『BGM』にはほとんど生楽器の音は使われず、打ち込み主体で制作が行われました。

今では主流の音楽制作方法です。

 

このアルバムに対して細野は、 「たくさん売れた後だからこそやりたいことができたアルバム」 と語っている。

 

 

1981年11月、『テクノデリック』発売。

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アルバムのタイトルのテクノデリックは「テクノ+サイケデリック」の造語。

 

『テクノデリック』では、当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。 現在の音作りの基礎をこの二つのアルバムが示してくれた、 教科書的アルバムである。

 

同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、 2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が全国11会場で行われる。

私が初めて参戦したYMOライブでした。

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ステージ・デザインは、奥村靫正が担当し、ADC賞を受賞した。

 

 

この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。

 

よくある、才能のぶつかりあい、、間に居た高橋は苦労したこのこと。

 

12月27日の新宿ツバキハウス公演を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。

 

しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。

 

 

      

・中期まとめ

これだけ知っていれば、あなたもYMOフリーク!!中期編。

 

・2枚の教科書的アルバム  『BGM』『テクノデリック』

・中期代表曲『CUE』(キュー)

・暗い、、地味な中期  

 

 

 

  

 

 

 

次回は、後期を、、