【お薦めアーティスト】YMO(イエローマジックオーケストラ)後期入門編 part1
いよいよ後期に突入です。 part1,2に分けて記事にします。
1981年の「ウィンター・ライヴ1981」をもって、音楽活動を一旦休止したYMOの3人はソロ活動や、別のジャンルでの活動を始める。
- 他アーティストへの楽曲提供
- 他アーティストとのコラボ企画
- バラエティー番組への出演
- 映画出演
- ソロライブ活動
今まで出来なかったことを、抑圧されてきた分を発散させる勢いでの活動期間でした。個々の活動を振り返ってみましょう。
主に楽曲提供に活動を置いていた感じが有ります。CM曲など、これが??って楽曲が多くあります。 はっぴいえんど時代の盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供。 ソロアルバムの制作や高橋幸宏と立ち上げた『YENレーベル』で新人発掘に力を注いだ。ゲルニカ、戸川純、上野耕路、立花ハジメ、サンディー&ザ・サンセッツなどがデビューしている。
個人としては1982年5月『フィルハーモニー』ソロアルバムを発表。 B面3曲目にあの名曲、、「スポーツマン」が収録されている。
これぞテクノPOPと言わんばかりの
”どテクノsound”
彼の代表曲となります。
彼こそ、自身の音楽の追及に費やした期間だと思われます。 活動休止以前にも各メンバーはソロアルバムを発売して、高橋も、
- 1980年 音楽殺人 →超おススメ
- 1981年 NEUROMANTIC
- 1982年 WHAT, ME WORRY?
- 1983年 薔薇色の明日
かなり精力的にアルバム制作に打ち込んでいます。 そして高橋幸宏、初のソロツアー「YUKIHIRO TAKHASHI TOUR '82 WHAT ME WORRY」がスタート!
細野晴臣、立花ハジメ、一風堂の土屋昌巳、イギリスのバンド「Japan」のドラマーのスティーブ・ジャンセンを従えての豪華なバンドと、豪華なゲストミュージシャンの参加が話題となった。
名盤『音楽殺人』明るく元気な超POPなアルバム。一番売れたソロアルバム。
名盤『NEUROMANTIC』同時期の「BGM」の影響が強い全英風POP。
Yukihiro Takahashi - Something in the Air (HD)
『 WHAT, ME WORRY?』活動休止中のソロアルバム。
上記アルバムを中心にセットリストされたライブは全14公演全てがsold-out。
私も参戦してます!
このころには、高橋幸宏を中心に”チーム高橋”なるものが出来上がりつつありました。それは現在にも続いていて、彼の人柄がそうさせているのだと思います。
坂本が一番バラエティーにとんだ活動をしていたと言えるでしょう。
アーティストの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優として参加、また自身としては初となる映画音楽を手がけ、日本人初の英国アカデミー賞の作曲賞を受賞した。
Merry Christmas Mr. Lawrence 戦場のメリークリスマス
NHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。 人気コーナー「デモテープ特集」では、当時素人の槇原敬之やテイトウワが応募していて、坂本から絶大な評価を得ている。
ソロアルバムもYMO活動時期から数えてここまで、4枚のアルバムを発売。
- 1978年 千のナイフ
- 1980年 B-2ユニット
- 1981年 左うでの夢
- 1983年 コーダ
特に2作目のオリジナルアルバム「B-2unit」は、メロディーの音色にノイズを混ぜたり、音色の変化そのものが曲であるというように、より音の在り方・音色自体に焦点が合わせられている。坂本らしい凡人に理解できない前衛的音楽を追及していた。
名曲 B-2ユニット「Riot In Lagos」
Ryuichi Sakamoto-Riot In Lagos
YMOのツアーでも演奏される。
このころから、活動の忙しさや騒がれたり注目される状況に嫌気が差した坂本は脱退を考えており、アルファレコードに対してYMO残留との交換条件でこのアルバムの制作費を出資させている。
二人の子供を授かる。次女は坂本美雨。
これだけ知っていれば、あなたもYMOフリーク!!後期編part1。
- 個々のソロ活動期間
- YMO解散への準備
【お薦めアーティスト】YMO(イエローマジックオーケストラ)中期入門編
前回の初期編に続き、入門編中期。
1981年のYMOは2枚のオリジナルアルバムを発売している。
その2枚は、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。
歌詞付きの楽曲になったのもこの頃からです。
1981年3月『BGM』発売。
YMOって、、暗い、、地味、、的なイメージはこのころの活動が多くを占めている。
前衛的ともいえるアルバム『BGM』は、当時開発されたばかりのデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使した非常に実験的なアルバムである。
それまでの聴きやすいノリノリのポップ指向のスタイルから“暗く重い”ヨーロッパ志向のニューウェーヴ色が強いエレクトリックサウンドを展開した。
音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大ヒンシュクを買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。
そのアルバムの6曲目に、、名曲「CUE」(キュー)が収録。
これ以降のYMOの音楽性を示した1曲であると坂本龍一は語っている。
初期のアルバムは生楽器とプログラミングやシンセサウンドが融合していましたが、『BGM』にはほとんど生楽器の音は使われず、打ち込み主体で制作が行われました。
今では主流の音楽制作方法です。
このアルバムに対して細野は、 「たくさん売れた後だからこそやりたいことができたアルバム」 と語っている。
1981年11月、『テクノデリック』発売。
アルバムのタイトルのテクノデリックは「テクノ+サイケデリック」の造語。
『テクノデリック』では、当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。 現在の音作りの基礎をこの二つのアルバムが示してくれた、 教科書的アルバムである。
同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、 2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が全国11会場で行われる。
私が初めて参戦したYMOライブでした。
ステージ・デザインは、奥村靫正が担当し、ADC賞を受賞した。
この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。
よくある、才能のぶつかりあい、、間に居た高橋は苦労したこのこと。
12月27日の新宿ツバキハウス公演を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。
しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。
これだけ知っていれば、あなたもYMOフリーク!!中期編。
・2枚の教科書的アルバム 『BGM』『テクノデリック』
・中期代表曲『CUE』(キュー)
・暗い、、地味な中期
次回は、後期を、、
【お薦めアーティスト】YMO(イエローマジックオーケストラ)初期入門編
お薦めアーテイストなんて、YMOに失礼極まりない気がするのですが、、 今の10代20代の世代は、YMOを知らないのでは??
個々のメンバーの名前は聞いたことがあっても、YMOが当時の音楽シーンにどれほどの影響を与えたか、詳しくはしらないかもしれません。
知らない世代の方々に、 YMO 結成40周年企画
今から40年も前に、世界を震撼させた日本人バンドが居ました。
日本のテクノPOPを語るうえで、決して避けて通ることのできないバンドです。
また、現代におけるJ-POPの基礎を確立したバンドだといえる。
正式名をYellow Magic Orchestra(イエロー マジック オーケストラ)
略語で、YMO。
「イエロー」とは黄色人種のことを指していて、白人文化や黒人文化から生まれたものとは違う、黄色人種独自の音楽を作り上げるという思いから、、
この「イエロー・マジック」を提唱。
結成同時の写真
細野晴臣 ほその はるおみ(写真左)ベース・キーボード
1947年、東京都港区生まれ。 「エイプリル・フール」のベーシストとしてメジャーデビュー。 その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成し、 日本語ロックの礎を築く。
坂本龍一 さかもと りゅういち(写真中央)キーボード
1952年、東京都中野区生まれ。 幼いころから作曲を学び、東京芸術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。『教授』と言う愛称で呼ばれている。命名は、高橋幸宏。
高橋幸宏 たかはし ゆきひろ(写真右)ドラム
1952年、東京都目黒区生まれ。 高校在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動。 加藤和彦の誘いを受け「サディスティック・ミカ・バンド」に加入。 ミカ・バンドは海外(イギリス)に高く評価されている。 1974年ロキシー・ミュージック全英ツアーでオープニング・アクトを務めた。
1978年、細野が2人を自宅に招き、こたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。
このとき細野は2人に、マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売るという自身のメモが書かれたノートを見せている。
その楽曲、ファイアー・クラッカーがこれ、↓
YELLOW MAGIC ORCHESTRA 『FIRECRACKER』(HD Remaster・Short ver.)
初期のYMOは歌詞無しのインストゥルメンタルテクノフュージョンサウンドでした。
結成当時の細野のメモ。 メモの最初の文字は、「fast single for USA」と書かれてあり、このころから海外デビューを意識していた。
細野のメモ
3人は、業界では有名なアーティストで、セッション等でお互いを認知はしていたそうです。また、坂本 高橋が細野をリスペクトしていたことでスムーズに話が進んだ。
秘話として、坂本の参加は当時細野のマネージャーの日笠雅水のあと押しが大きかったようです。
発売アルバムを時系列で、YMOの初期を振り返ります。
1978年11月 デビュー・アルバム
『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売。
このアルバムがクソも売れなかったようです、、
電子楽器で歌詞の無い、俗に言う「ピコピコサウンド」は当時の日本にはまだ早かったのか、、あまり受け入れられなかったようです。
発売元のアルファレコードは打開策として、当時業務提携の関係にあった米国のA&Mレコードにこのアルバムの販売を依頼。興味を示したA&Mは、、
1979年5月「イエロー・マジック・オーケストラ 米国盤」を発売。
全米デビューが決定した。
これが、、バカウケ状態!!
この米国盤は日本でも発売され、オリコン・チャート最高20位まで上り詰めた。
それと同時に米国でのライブが成功!ロサンゼルスのグリーク・シアターでは、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。
世界がYMOを注目し始めた。
1979年9月 YMOを日本を含め、全世界が認知することになる名盤!!
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が発売。
このアルバムに、YMOの代表曲となる、「ライディーン」「テクノポリス」が収録。
オリコン・チャートの最高1位にランクインし日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、YMOの名を幅広い世代に浸透させることとなった。
同年、初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。テクノカットが流行ったのも時期。
このツアーでは、記者やジャーナリストを同行させ、世界での活躍をダイレクトに日本に伝えている。これが日本でのブームの火付け役になった。
帰国後は、日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外ツアーをやる日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、成功してから行うが、YMOは国内でヒットする前に海外ツアーを行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と確信しての事だった。
1980年2月 そのライブを収録したアルバム、
『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』を発売。
ライヴ演奏は、第1回ワールドツアーのヴェニュー(ロンドン)、グリーク・シアター(ロサンゼルス)、ボトムライン(ニューヨーク)の三公演が編集、収録されている。
ライブ演奏のサウンドがまたカッコいい、、 英語のMCや海外観客の反応が当時凄く新鮮に感じたアルバムでした。 ジャケットデザインが好きでしたね、、
このライブスタイルは第1回ワールドツアーから現在に至るまで変わっていない。
ステージ向かって、、
右に細野晴臣のキーボード、ベース。
中央に高橋幸宏のドラムセット。
左に坂本龍一のキーボード群。
奥右のサポートメンバーのキーボード、主に矢野顕子。
奥左のサポートメンバーのギター、主に大村健司、渡辺香津美。
そして、YMOのライブに無くてはならない、、
奥中央の機材。通称「タンス」と呼ばれていたシーケンサーMC-8等。
プログラマーの松武秀樹が操作。 YMO第4のメンバーと言われている。
YMOの「ピコピコ音」はこの機材で作っている。 松武秀樹が居なければYMOのライブは成り立たなかった。
ドラムセットがど真ん中で、ヘッドホンを付けて、キーボードを立って演奏するスタイルが、今では普通だが当時はもの凄くカッコ良かった!!
ちなみに「タンス」と呼ばれた機材群は、現代ではMac book 1台で事足りるそうです。40年の進歩は凄い!!!
1980年6月 3枚目のアルバム、
『増殖』を発売。
このアルバムは、音楽アルバムの概念をくつがえす画期的アルバムとなる。
曲の間にコントを挟むギャグ・アルバムを作ったのである。 高橋幸宏が当時好んで聴いていたラジオ番組『スネークマンショー』を細野晴臣に聴かせたところ、気に入り制作を決めたそうです。
『スネークマンショー』に出演していた伊武雅刀、小林克也、桑原茂一がそれを担当。
当時、小学生だった私がYMOを知った、またハマったアルバムがこの「増殖」です。
このアルバムの2曲目に、名曲「Nice Age」が収録!!
YMOとしては珍しい歌詞入りの楽曲で、ボーカルは高橋幸宏、、声が渋い、、
高橋、坂本の作曲で、イギリス的ニューウェーブロック。 「ピコピコサウンド」だけではない、YMOの幅の広さを感じる楽曲です。
また、この楽曲には、謎のメッセージが、、
「ニュース速報。22番は今日で一週間経ってしまったんですけども、でももうそこにはいなくなって、彼は花のように姿を現します…」 "Coming up like a flower"
この彼とは、1980年1月16日 ウイングス日本公演で来日し、 大麻所持のため成田空港で現行犯逮捕されたポールマッカートニーのこと。22番とは、留置番号。
Coming up like a flowerとは、ポールが捕まった時に当時妻のリンダがポールに送ったメッセージ。
YMOはポールとセッションをする予定でしたが、逮捕で中止に、、
それを皮肉ってのメッセージだったとか、、
その「Nice Age」がこれ ↓↓
同年10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。
ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。
これだけ知っていれば、あなたもYMOフリーク!!初期編。
・結成40周年(2018年)を迎えた
・細野、坂本、高橋の3人からなるテクノバンド
・海外で火がついて日本に逆輸入
・初期代表曲「ファイアー・クラッカー」「ライディーン」「Nice Age」
・1978年~1980年の音楽、ファッションの社会現象となる
次回は中期を、、
政府、全ての児童虐待を点検へ
やっとか、、遅いよ、、
とは言うものの、これで一歩前進かな、、
千葉の小4児童虐待事件で、 政府が児童虐待の全国一斉点検を実施する。
安倍首相は「子どもの命を守ることを最優先に、あらゆる手段を尽くすとの強い決意で総力を挙げて虐待の根絶に取り組んでほしい」と述べている。
また、1カ月以内に全ての虐待事案の緊急安全確認を行うことを表明した。
これは、スピード勝負だよ!!安部さん、
保護者が関係機関との関わりを避ける場合はリスクが高いと認識し、
ためらわずに一時保護するよう求めた。
うんうん、これが大事!!
虐待をしている親は隠そうとする。
この世から児童虐待が無くなることを切に願う。
次回は、 なんで虐待が起こるのか、 なぜ自分の子供に、、虐待をするのか、、
記事にしてみようと思います。
公的抑圧(パブリックプレッシャー)
あってはならない事が起きた!
観光でUAEを訪れていたイギリス国籍の男性が、決勝リーグのイラク対カタールの試合をカタールのユニホームを着て観戦し応援。
その後、関係当局に逮捕された。
イギリスのメディア『ガーディアン』によると、UAEとカタールは2017年から国交が断絶状態であり、会場であるUAEの法律で「カタールへの支持を表す行為」は違法とされている。同男性はこのことを知らずにユニフォームを着用したために、逮捕され、多額の罰金と長期の収監を余儀なくされているようだ。
これは間違いなく公的抑圧!!
スポーツの祭典に政治介入している。
国交が断絶してるからと、
カタールを応援するな!したものは逮捕!
アホくさ、、笑笑
アラブの国では、こんな事がまかり通るのか、、
その前にUAEが出れるかが問題か、、
この問題、FIFAが黙ってないでしょ、、