【お薦めアーティスト】YMO(イエローマジックオーケストラ)初期入門編
お薦めアーテイストなんて、YMOに失礼極まりない気がするのですが、、 今の10代20代の世代は、YMOを知らないのでは??
個々のメンバーの名前は聞いたことがあっても、YMOが当時の音楽シーンにどれほどの影響を与えたか、詳しくはしらないかもしれません。
知らない世代の方々に、 YMO 結成40周年企画
今から40年も前に、世界を震撼させた日本人バンドが居ました。
日本のテクノPOPを語るうえで、決して避けて通ることのできないバンドです。
また、現代におけるJ-POPの基礎を確立したバンドだといえる。
正式名をYellow Magic Orchestra(イエロー マジック オーケストラ)
略語で、YMO。
「イエロー」とは黄色人種のことを指していて、白人文化や黒人文化から生まれたものとは違う、黄色人種独自の音楽を作り上げるという思いから、、
この「イエロー・マジック」を提唱。
結成同時の写真
細野晴臣 ほその はるおみ(写真左)ベース・キーボード
1947年、東京都港区生まれ。 「エイプリル・フール」のベーシストとしてメジャーデビュー。 その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成し、 日本語ロックの礎を築く。
坂本龍一 さかもと りゅういち(写真中央)キーボード
1952年、東京都中野区生まれ。 幼いころから作曲を学び、東京芸術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。『教授』と言う愛称で呼ばれている。命名は、高橋幸宏。
高橋幸宏 たかはし ゆきひろ(写真右)ドラム
1952年、東京都目黒区生まれ。 高校在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動。 加藤和彦の誘いを受け「サディスティック・ミカ・バンド」に加入。 ミカ・バンドは海外(イギリス)に高く評価されている。 1974年ロキシー・ミュージック全英ツアーでオープニング・アクトを務めた。
1978年、細野が2人を自宅に招き、こたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。
このとき細野は2人に、マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売るという自身のメモが書かれたノートを見せている。
その楽曲、ファイアー・クラッカーがこれ、↓
YELLOW MAGIC ORCHESTRA 『FIRECRACKER』(HD Remaster・Short ver.)
初期のYMOは歌詞無しのインストゥルメンタルテクノフュージョンサウンドでした。
結成当時の細野のメモ。 メモの最初の文字は、「fast single for USA」と書かれてあり、このころから海外デビューを意識していた。
細野のメモ
3人は、業界では有名なアーティストで、セッション等でお互いを認知はしていたそうです。また、坂本 高橋が細野をリスペクトしていたことでスムーズに話が進んだ。
秘話として、坂本の参加は当時細野のマネージャーの日笠雅水のあと押しが大きかったようです。
発売アルバムを時系列で、YMOの初期を振り返ります。
1978年11月 デビュー・アルバム
『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売。
このアルバムがクソも売れなかったようです、、
電子楽器で歌詞の無い、俗に言う「ピコピコサウンド」は当時の日本にはまだ早かったのか、、あまり受け入れられなかったようです。
発売元のアルファレコードは打開策として、当時業務提携の関係にあった米国のA&Mレコードにこのアルバムの販売を依頼。興味を示したA&Mは、、
1979年5月「イエロー・マジック・オーケストラ 米国盤」を発売。
全米デビューが決定した。
これが、、バカウケ状態!!
この米国盤は日本でも発売され、オリコン・チャート最高20位まで上り詰めた。
それと同時に米国でのライブが成功!ロサンゼルスのグリーク・シアターでは、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。
世界がYMOを注目し始めた。
1979年9月 YMOを日本を含め、全世界が認知することになる名盤!!
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が発売。
このアルバムに、YMOの代表曲となる、「ライディーン」「テクノポリス」が収録。
オリコン・チャートの最高1位にランクインし日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、YMOの名を幅広い世代に浸透させることとなった。
同年、初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。テクノカットが流行ったのも時期。
このツアーでは、記者やジャーナリストを同行させ、世界での活躍をダイレクトに日本に伝えている。これが日本でのブームの火付け役になった。
帰国後は、日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外ツアーをやる日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、成功してから行うが、YMOは国内でヒットする前に海外ツアーを行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と確信しての事だった。
1980年2月 そのライブを収録したアルバム、
『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』を発売。
ライヴ演奏は、第1回ワールドツアーのヴェニュー(ロンドン)、グリーク・シアター(ロサンゼルス)、ボトムライン(ニューヨーク)の三公演が編集、収録されている。
ライブ演奏のサウンドがまたカッコいい、、 英語のMCや海外観客の反応が当時凄く新鮮に感じたアルバムでした。 ジャケットデザインが好きでしたね、、
このライブスタイルは第1回ワールドツアーから現在に至るまで変わっていない。
ステージ向かって、、
右に細野晴臣のキーボード、ベース。
中央に高橋幸宏のドラムセット。
左に坂本龍一のキーボード群。
奥右のサポートメンバーのキーボード、主に矢野顕子。
奥左のサポートメンバーのギター、主に大村健司、渡辺香津美。
そして、YMOのライブに無くてはならない、、
奥中央の機材。通称「タンス」と呼ばれていたシーケンサーMC-8等。
プログラマーの松武秀樹が操作。 YMO第4のメンバーと言われている。
YMOの「ピコピコ音」はこの機材で作っている。 松武秀樹が居なければYMOのライブは成り立たなかった。
ドラムセットがど真ん中で、ヘッドホンを付けて、キーボードを立って演奏するスタイルが、今では普通だが当時はもの凄くカッコ良かった!!
ちなみに「タンス」と呼ばれた機材群は、現代ではMac book 1台で事足りるそうです。40年の進歩は凄い!!!
1980年6月 3枚目のアルバム、
『増殖』を発売。
このアルバムは、音楽アルバムの概念をくつがえす画期的アルバムとなる。
曲の間にコントを挟むギャグ・アルバムを作ったのである。 高橋幸宏が当時好んで聴いていたラジオ番組『スネークマンショー』を細野晴臣に聴かせたところ、気に入り制作を決めたそうです。
『スネークマンショー』に出演していた伊武雅刀、小林克也、桑原茂一がそれを担当。
当時、小学生だった私がYMOを知った、またハマったアルバムがこの「増殖」です。
このアルバムの2曲目に、名曲「Nice Age」が収録!!
YMOとしては珍しい歌詞入りの楽曲で、ボーカルは高橋幸宏、、声が渋い、、
高橋、坂本の作曲で、イギリス的ニューウェーブロック。 「ピコピコサウンド」だけではない、YMOの幅の広さを感じる楽曲です。
また、この楽曲には、謎のメッセージが、、
「ニュース速報。22番は今日で一週間経ってしまったんですけども、でももうそこにはいなくなって、彼は花のように姿を現します…」 "Coming up like a flower"
この彼とは、1980年1月16日 ウイングス日本公演で来日し、 大麻所持のため成田空港で現行犯逮捕されたポールマッカートニーのこと。22番とは、留置番号。
Coming up like a flowerとは、ポールが捕まった時に当時妻のリンダがポールに送ったメッセージ。
YMOはポールとセッションをする予定でしたが、逮捕で中止に、、
それを皮肉ってのメッセージだったとか、、
その「Nice Age」がこれ ↓↓
同年10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。
ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。
これだけ知っていれば、あなたもYMOフリーク!!初期編。
・結成40周年(2018年)を迎えた
・細野、坂本、高橋の3人からなるテクノバンド
・海外で火がついて日本に逆輸入
・初期代表曲「ファイアー・クラッカー」「ライディーン」「Nice Age」
・1978年~1980年の音楽、ファッションの社会現象となる
次回は中期を、、